以前よく見ていたテレビ番組に、心理相談ショーとでも
言ったらいいのか、実際のカウンセラーが登場し、その
先生の診療所で現実にあった事例を再現するというのが
あった。日本のテレビじゃありません。
カウンセリングといっても、お悩み相談に近い件が多く、
鬱病や神経症のような、治療を必要とする事例では
なかった。
青少年の恋愛相談も多く、その一つが印象に残っている。
ある十代の女の子。見るからにイケていない。
すごく大きなメガネをかけているが、パリス・ヒルトン
のサングラスや、たっくんの好きな黒ぶち眼鏡とは明ら
かに違う、どう見ても80年代に流行した古臭いメガネ。
服もお婆ちゃんの着るような地味なカーディガンで、
髪は手入れなしのパサパサで、せっかく金髪なのに、
なんか汚らしく見える。
その子と、同じ学校の男の子が相談室に来ている。
二人はペアではなく、片方が一人で来て、悩みを聞いて
から先生が相手を呼んだのだが、どっちが先に来たのか
は、見逃した。
とにかく先生の前に、時代錯誤な恰好の女子と、普通の
男の子が並んでいて、男の子は「なんでコイツがここに
?」という顔。しかし先生に促されて悩みを話しだす。
あるパーティーで、すごく綺麗な子と知り合ったけど、
どこの誰かわからない、小さな田舎町で知らない人間は
いないはずなのに、探しても見つからない。
女の子の方は、彼が美女探しとか言って、みっともない
大騒ぎをしている、やめてほしいと苦情。
喧嘩みたいになった時、女の子が突然、「ちょっと待
って」と言って、後ろ向きになってメイクを始める。
髪も結いあげ、カーディガンをおしゃれな上着に取り
換えると、目の覚めるような金髪美人に変身!
ここは再現の役者さんが、本当に見事に変身してくれて、
凄い説得力。
男の子の探していた見知らぬ美人とは、学校で毎日顔を
合わせていた「変な女」だった!! ショックを隠せない
男の子・・・
先生は女の子に「あなたのほうは彼が好きじゃないのね
?」と確認するが、彼女は「外見だけで付き合おうとする
のがいや」と答える。どうも、彼が好きだけど、自分の
外側が綺麗だからというだけでは嫌で、中身も受け入れて
ほしいらしい。
その時の先生の答えは・・・
「内面が大事、それは本当です。でも、人間は視覚の動物
です。情報を受け取るのに、まず視覚で受け取るように
生まれついている。内面が大事だからといって、生まれ
つきのものを否定するのは不可能。」
その番組ではそれしか言わなかったけど、ヒトは視覚から
相手の健康状態や精神状態を見てとる、という話はよく
聞く。
服装がその人の考え方や性格を表すというのも本当で、
常識的で清潔な格好をしている人を信頼できると判断する
し、だらしない格好をしたり、その場に合わせるだけの
気遣いのない人には、日ごろの行動も信頼できないのでは、
と思う。
上のテレビ番組の女の子は、若く健康で、その健康さを
証明する美しさを持っているのに、その「自分」を否定
し、隠していた。
自分を大事にできない、という人は、どこかに不健康な
部分がある。
自分に自信が無い、という状態は誰でも経験するので、
その程度なら不健康というほどには感じない。でも、それ
とは違う不自然さを感じる場合は、精神的に複雑な問題を
抱えているかもしれない。
その女の子の場合は、家庭がカトリックで、虚栄心を戒め
る古い考え方と、現代の普通の常識や倫理とのギャップを
祖父母や親がうまく調和させられなかった、と説明でき
る。
上の話は、私たちは、うわべだけを見て他人を判断する
傾向を持つが、それは本能的なもので、人間関係の中で
ある程度必要な傾向であり、外見を全く無視することは
できない、と言いたくて書いた。
でもそれは、「外見や癖などが不快だったら、不健康で
ある。だから排除してもいい」という意味ではない。
反対に、外見だけにこだわりすぎるのはもっと不健康だ
と思う。
服装や髪型がおかしいというだけで、他人を攻撃すると
いう行為は、特に危険。
ちょっとした癖など、格好以外の「外側」が気に入らない
場合も、批難していい理由にはならない。たとえば「腕
組みばかりして感じが悪い」と思う人間がいたとしても、
その一点だけでその人を判断するのは間違いだ。会社の
採用面接だったら落とす理由になるが、普通の生活の中で
面接みたいにここがマイナス、ここがプラス、などとやり
はじめたら、人間関係がギスギスになってしまう。
ほんの些細な欠点を捉えて、全人格的な評価をするのは
良くないことなのに、それを理由に「あんな人には何を
してもいい」と勘違いする連中が多いのは困ったもんだ。
仲間外れにする程度を超えた、ハラスメントの段階になる
と、外見や癖の変わった人が不健康なのではなく、執拗な
攻撃の方が病的とみなしていい。
こういう事例を見るとき、見た目が「変わっている」ことは、
たいして罪のない、ごく軽い不健康なのだ、と思う。
本当に深刻で性質が悪いのは、罪のない変わり者を、ここ
ぞとばかりに攻撃する人たちだ。
外見や他人に与える印象などの「外側」も、普段見えない
内面も、両方とも、ほったらかしにしてはいけない。
外側をマメに整える人たちも偉いと思うし、外見に惑わさ
れずに中身を大事にしようとする人たちも偉い。
ただ、どちらであろうと、他人のあり方を否定したり、あり
のままの性格を攻撃するのは、おかしい。自分が今より
少し素敵になりたくておしゃれをしたり、内面を磨こうと
する、そういう努力と、人を否定したり攻撃することは、
矛盾する。他人への攻撃は、内面の美しさを損ない、
醜くするものだ。
特定の人間を嫌って、いつでもぐじぐじと貶めるような
事ばかり書いている人のブログを読んで、一番感じること
は、「この文は、汚泥のようだ」。
嫌われている人ではない、嫌って書いてる当人の心が
とてつもなくドロドロなのだ。
こういう人のブログに行き当たるたびに、中世の魔女狩り
だな、と思う。僧侶は自分の心に起る性欲を自分の責任と
せず、それを引き起こす女を、悪魔だからそんな心を見る
者の心に起こすのだ、と責任転嫁した。
悪意という醜い感情が他ならぬ自分自身の心の一部なのに、
その自分の悪さを、自分が勝手に嫌っている人間にかぶせ
ようとする。自分が吐き出した汚泥を、他人に吐きかけて、
その人を汚いと言う。その汚泥は誰のものでもない、自分
のものなのに。
そんな人が、内面が大事、生まれつき持ってるものより
努力して得たものが大事、などと書いていると、
偽善者~
と思う。そんなヘドロを内面に抱えておいて、内面を磨く
って、何言ってんの!?
内面でも外面でも、自分みがきするのを理想だと思って
いる人たち、つまり一種の向上心の強い人たちは勘違い
してる人が多いと思う。
自分を磨くのは、自分が好きだから、ナルシストだから
である。自分が今よりも素敵で価値のある人間になりたい
から、自分磨きをするのであって、エゴイズムなのである。
健全なエゴイズムというのもあって、それは誰でも必要な
ものだ。素敵な自分になれば、周りの人たちに歓迎され、
喜んで貰える、そこまではいい。
でも、その一方で他人を貶め排除しようとするのなら、
そのエゴイズムは健全ではなく、悪いエゴだ。
自分を磨くのは、上から目線で他人を見下ろして傲然と
「あんたはダメ人間よ」と言うためではない。否、そう
なった時点で自分磨きは失敗である。