月曜日, 10月 13, 2008
ハレとケ
何年か前に見たフランスのテレビドラマを思い出した。
日本語のハレとケの話だと思った。
作り手はそんなこと考えていなかったと思う。物語の要は
中年男性の隠れた同性愛で、それを開放するのか抑圧
するのかというテーマだった。
タイトルも出演者も監督も何にも覚えてない。というか、
知ろうともしなかった。
場所はたぶんパリ。フランスにはパリ以外の都会はない
のだと思う。
新宿界隈のような、怪しげだが賑やかなエンタメの中心
地で、見るからに普通の、真面目さと庶民性で塗り固めた
ような30代くらいの夫婦が、小さなバーでショーを見る。
安っぽい、けばけばしいショーだが、平凡な日常には
ないキラキラした輝きがあり、ところどころ夢の世界らしく
美しい。
その夢の一番綺麗な部分は、17,8歳の男の子。少年期
から抜け出して間もない青年で、金髪の美形。売り出して
間もない頃のジェイミー・オリバーに似ている。
彼がショーの中で女装しているのがとても綺麗で可愛ら
しく、夫婦はすっかり魅せられる。
画面は切り替わり、夫婦が翌日から仕事をしている風景が
映し出される。クリーニング店。非常に忙しくて休憩もろく
にとれず、二人はただ働き続ける。深夜まで働いて寝る
だけの毎日。
ある夜、ショーの女装の青年が店に転がり込んでくる。
夫婦は困っている彼をしばらく泊めることにする。
青年が入ってきてすぐ、夫婦二人とも彼の存在に心が
浮き立ち始める。着替えの時に無頓着にドアを閉めも
しないで全裸になってしまったり、半裸でソファで眠った
りするが、綺麗なので夫までが見とれる始末。言動も
オープンでハレの感覚をそのまま持ち込んできたような
感じで、ひたすら働くケの毎日に埋もれた夫婦には新鮮
に映る。
青年は怠け者ではなく、店の手伝いをさせるとそつなく
こなし、物覚えもいい、客の受けはいい、で、夫は自分の
後継者にどうかと言いだす。
実は本心は青年に恋しているのだが、それがどうしても
自分で認められない。夫婦に子が無く、妻が孤独感に
苦しんでいるのは彼が異性に興味がないからだということ
が、青年との交流を通じて少しずつ明かされていく。
妻は青年との情事に身を委ね、いろんな抑圧から自分を
開放するが、夫はあと少しのところで抑圧へと逃げ帰り、
反動から青年を殴ってしまい、運悪く死なせてしまう。
もとの安泰な抑圧の人生にしがみついてしまった夫は、
一家の柱という仮面、頼れる働き手という世間体を守る
ために、青年の死体を隠してしまう。
最後に、何事もなかったかのように通りを闊歩する夫と、
その3歩後ろを戸惑ったように歩く妻が映る。
ハレとケは、非日常的な特別なお祭りと日常という意味
だが、もしかしたら慣習や倫理によって抑圧された本心
のことをハレというのかもしれない。
社会的に期待される役割(アイデンティティとかジェンダー
とか)に、どうしても合わせきれない部分(これが本当の
意味での個性なのかも)が出てきてしまった場合の絵が、
解釈によって天国と地獄に分かれる。
常識や世間体 vs 常識の枠からはみ出す個性 という
白か黒かの対立でしか捉えられないと、常識サイドから
見たハレ的個性ののさばる世界はソドムとゴモラ、背徳の
堕落した世界。反対に個性重視のサイドから見ると、少し
でも規格からはみ出す個性を容赦なく潰していく世界は
全体主義、ナチス的な悪夢の世界。
今のところ世界的傾向は、個性重視の反ナチスだが、
日本社会では個性が嫌われる傾向が昔と変わらない。
何が嫌いなのかよく聞いてみると、うぬぼれた態度とか
なまいきな態度などの、細かい末端の自己表現を嫌って
いる人が多い。その人の個人的な好き嫌いに過ぎない
のに、それだけを理由に嫌いな人間を排斥したり侮辱
したりしても良い、むしろその失礼で間違った行為に
よって「自分の主張をした」と誇りさえする人が多い。
謙虚な態度のほうが好感は持てる、それは確かだけど、
謙虚さを他人に要求する態度と、自分が謙虚に振る舞う
のとは、正反対なんだけど…
あ、「真逆」という単語は、まだ馴染みがないので使いま
せん。
自分自身が謙虚になるよう努めていた場合、他人がそれ
をしないからといって怒るのは、間違いだ。人に向かって
「何偉そうにしてるんだ、引っ込め!」と言うのが謙虚さだ
とは誰も言うまい。
そして、自分が謙虚なのはいいが、謙虚に見えない人間と
まともに向き合わないのも、謙虚の仮面をまとった傲慢だと
思う。
だから、日本人の好きな「いい人」「謙虚な人」には、胡散
臭いものを感じる。